itworks/seventies/ トッピクス: 城郭遺跡・石橋
14-10-26 糸島・篠原東遺跡
 10月19日(日)に、新聞で発掘された中世の居館跡の説明会の情報を見て、糸島市の「篠原東遺跡現地説明会」に行ってきた。

糸島高校の東、JR筑肥線のすぐ北側、遺跡の周辺では1980年代に大規模な圃場整備を行っており、
この圃場整備の土を1メートルほど削ったところに、
古墳時代の流路、平安時代のい掘っ立て柱の5棟分の建物跡、戦国時代の掘っ立て柱の2棟分の建物跡が見えてきた。
さらに、戦国時代の建物跡の周囲には、四方がおよそ70mの方形の壕あとがあった。

篠原東遺跡母屋
篠原壕東遺跡 壕跡からは、鬼瓦一つ、木製の杓子、火縄銃の鉛玉(2匁半玉)一つが発見されている。
篠原東遺鉛玉
篠原東遺鬼瓦 中世の日本では、村を支配する土豪が四方がおよそ70mの方形の壕で囲まれている館を構えていた。 方形の郭の中には、母屋、納屋、馬屋があり、建物はほとんどが瓦葺きは無く、掘っ立ての建築であった。 糸島では波多江、潤で確認さている。また泊、篠原、浦志にもあるとのことである。 これでは、糸島の村ごとにあったということになる。 「篠原東遺跡現地説明会」の会場から徒歩で広い耕地を横切り、波多江に向かった。 波多江には、高祖山城の原田氏の流れをくむ波多江丹波守種利が築いたという居館跡が残っている。
波多江城 四方がおよそ70mの方形の壕堀と内側に土塁が残されている。 しかも、現在も民家であり波多江姓の人が住んでいる。
波多江城北壕跡

10-11-21 但馬竹田城址
 但馬竹田城址に行ってきました。ここは、長い間、一度行ってみたいと思っていたところです。
竹田は、姫路の北方で、JR播但線普通で途中乗り換えありで一時間20分のところです。
竹田駅のすぐ裏に城址のある虎臥山(海抜352m)があります。
この山は四方に眺望の良い山です。特に北は山陰道の和田山、南は生野方面と広く眺めることができます。
東の麓に、竹田の町並みがあり、瀬戸内海から日本海への幹線道路が通ってます。

この山頂に、慶長年間の初期に築かれた 曲輪のすべてを石垣で取り囲んだ総石垣の壮大な城郭址が残っています。

竹田城 天守台のある本丸を中心に、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪という大きな曲輪が三方向に広がり、 曲輪の虎口は枡形で、要所には矢倉址が残っています。 ほぼ完全に近世初期の城郭の姿を今に伝えています。 その時の城主は斎村政広(さいむら まさひろ 永禄5年(1562)-慶長5年(1600))です。 彼は、赤松一族で、はじめは赤松を名乗り、赤松広通・広秀・広英と称した。 小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げ、豊臣秀吉から天正13年(1585)但馬竹田城2万2,000石を与えられた。 その後、九州攻め(天正14年(1586)から同15年)や小田原攻め(天正18年(1590))、朝鮮の役に参戦。 文禄元年(1592)に兵800を率いて、朝鮮に渡った。 この朝鮮では、日本軍は多くの総石垣の城を築きました。 これにより、多くの大名が実戦的な石垣の城を短期間で築く技術を習得したと考えられます。 但馬竹田城址を歩きながら、斎村政広も石垣の城を築く技術を得たのではないかと思った。 但馬竹田城址のリンク いろいろな方のページがあります。 特に、一番目には、ライブカメラのページで天空に浮かぶ城の写真、二番目は城の詳細を見ることができます。 朝来市観光情報「竹田城跡」フォトギャラリー 竹田城 埋もれた古城 なお、斎村政広は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、西軍の因幡鳥取城を攻めた。 戦後、鳥取城下焼討ちの咎で、鳥取の真教寺で切腹し、城は廃され、その所領は江戸幕府に没収された。 竹田城は歴史の表から消え去ったのである。

10-04-23 韓国倭城
 韓国の南部には、倭城と呼ばれる古い城跡が点々とある。
これらは、文禄・慶長の役に日本人によって築かれた城の跡です。
海を見渡す山の上に、本丸を中心に堅固な石垣の城郭があり、また麓では広大な外郭で港を扼している。
このたび、ツアー(2010/03/26~29)に参加して、熊川倭城、順天倭城、蔚山倭城、西生浦倭城、機張倭城、
釜山子城台倭城をみることができた。

熊川倭城(ウンチョン ウエソン): この城は、慶尚南道鎮海市南門洞南山にあり、
近くに、室町時代の日朝貿易の開港の3港のひとつ薺浦(セポ)がある。
文禄2(1593)年、上杉景勝等の加勢を得、築城された。完成後、小西行長が入った。

熊川倭城 順天倭城(スンチョン ウエソン): 全羅南道順天市海龍面新城里。 慶長2(1597)年11月から、宇喜多秀家、藤堂高虎を中心として、築城を始め、突貫工事により城は短期間。 新城の完成後は、小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前の五氏1万3千余人が在番していた。 慶長3(1598)年9月~11月には、明・朝鮮軍の猛攻撃をしのいだ「順天城の戦い」があった。
順天城の戦い なお、上の絵をクリックすると、全景が表示されます。 蔚山倭城(ウルサン ウエソン) 蔚山広域市中区鶴城洞(現・鶴城公園) 慶長2(1597)年・慶長3(1598)年の加藤清正の奮戦で有名なところ。
蔚山倭城 西生浦城(ソセンポ ウエソン)  蔚山広域市蔚州郡西生面西生浦里 。 文禄2(1593)、加藤清正が築城。 慶長2(1597)年、慶長の役が始まると、西生浦倭城には加藤清正軍が入り、ここを根拠地とする。 同年末から清正は、蔚山倭城に移り、黒田長政が守る。 機張城(キジャン ウエソン)   釜山広域市機張郡竹城里。 文禄2年(1593)、黒田長政が築城、在城した。 釜山支城  釜山広域市東区凡一洞(現・子城台公園)

98-06-07熊本.小筵(こむしろ)橋
この橋は、熊本県下益城郡中央町の国道218号の横の旧道にあります。 文政12(1829)年の完成。石工は種山村の嘉八と思われている。

98-06-07 熊本.砥用町馬門(まかど)橋
この橋は、熊本と宮崎とを東西に結ぶ往還(現在の国道218号の)にあります。 文政10(1827)年竣功。石工は種山村の茂吉、勘五郎さんの名前が残ってい ます。 国道から少し離れたところに、ひっそりと往時の姿を伝えています。

98-06-07 熊本.砥用町霊台(れいたい)橋
この橋は、高さ16m、幅5.5m、全長89.8m。単一アーチ式石橋では 日本最大。弘化4(1847)年竣功。石工は卯助、宇市、丈八さん達です。 急流を凌ぐための大きなアーチは、堂々と日本の石橋を代表する姿をしてます

98-06-07 熊本.矢部町通潤(つうじゅん)橋
この有名な橋は、安政元年(1854)完成。隣村の船津橋(現砥用町の霊台橋) を見た矢部村の総庄屋布田保之助が石工卯助、宇市、丈八を招き、築いたものです。 水を対岸の台地に急流を越えて運ぶ目的で作られ、橋の中に導水管(サイホン)が 3本組み込まれています。尚、保之助の記した通潤橋仕法書が伝えられています。

98-08-01 福岡.秋月町眼鏡橋
この橋は、城下町秋月の入口にあります。秋月藩が長崎の石工の技術を入れ、 文化7年(西暦1810年)に竣功したものです。最初の工事では、完成直 前の石橋が崩壊し、その後に発生した藩の財政上や政治上の問題を乗り越え、 多くの苦労の末完成したと伝えられています。硬い花崗岩を積上げた橋は、 長年の車馬の往来、野川の激しい流れに耐え、 今にその美しい虹の姿をとどめています。

99-03-07 東京.万世橋
明治になって、肥後の石工は東京で万世橋、浅草橋、江戸橋、京橋などを架 けたと伝えられいます。たまたま、小学館文庫から出た「百年前の東京絵図」 を見ていたら、「万世橋付近の図」に出くわしました。神田川に架かるこの 橋は、わざわざ見物のくる人があるほど有名で立派な橋だったそうです。 遠くに目える塔は駿河台のニコライ堂です。当時の東京のランドマークです。

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